東京都セルプセンターの要請で東京コロニーを代表して、青葉ワークセンターの坂本征治氏、仲町就労支援事業所の中原達夫氏の2名が被災地に救援物資を届けました。その内容を報告します
期 間:平成23年4月4日~7日
輸送要員:坂本征治、中原達夫
経 過:
3月11日に起きた地震・津波によって大きな被害を受けた東北3県(岩手県・宮城県・福島県)の障害者福祉施設へ生活支援物資を輸送することを全国セルプ・日本セルプセンター・関東社会就労センター協議会(関東セルプ)が協働して行うこととなり、関東セルプの要請に応え1都6県が輸送業務に関わる車両提供・人員派遣にあたることとなり、3月31日より3回の輸送が行われた。
東京都セルプセンターの要請に応え4月4日からの第2回物資輸送に東京コロニーが行うこととなった。
4月4日:トーコロ青葉ワークセンターを出発し、支援物資の集約拠点となった栃木県宇都宮市の社会福祉法人飛山の里「ハート飛山」に集結、支援物資を積み込んで同施設2階に宿泊した。
4月5日:東京コロニー(東京都)は群馬県、千葉県、山梨県とともに岩手県への輸送担当となり現地拠点である北上市の社会福祉法人方光会「萩の江」に搬送し、荷を降ろし盛岡市に宿泊、千葉県、山梨県は業務を終え同日帰った。
4月6日:盛岡市の岩手県手をつなぐ育成会「あすなろ園あすなろ屋羽場店」に早朝集合し、ここからは施設への個別輸送となり、これよりは県社協の指示のもと、東京コロニーは県社協コーディネーター千葉淳氏及び当地施設職員(岩手ワークショップ)とともに岩手県釜石市、大槌町の施設へ車両2台で向かった。また東京コロニー車には、国立市から派遣された施設職員が同乗した。
岩手県沿岸被災地へのベースキャンプとなっている遠野市を経て釜石市へ。
釜石市の被災施設への物資集積施設であり物資搬送のコーディネートをするハブ基地となっている大松学園(知的入所更生施設)へ輸送。
この搬送は県社協にとっては物資の輸送とともに、障害者施設の被災状況や必要物資の把握のための訪問でもあった。
続いて釜石市福祉作業所、「ノーサイド」(知的通所)を訪問、ここの利用者の中には通所している間に実家が津波にさらわれた方、たまたま実家で休んでいて津波に遭い亡くなった方などがいた。
物資輸送後、瓦礫が道の両端に山となっている釜石市街を見学、隣りの入り江に広がる大槌町に行く。ここは町舎が襲われ町長をはじめ半数の町職員が亡くなった町で、住民基本台帳を失って行政機能がなくなって、ゼロからやり直しの町になってしまったという。
視界が広がる瓦礫の地となった大槌町を折り返し、釜石を通って盛岡に戻る。夕刻より宮古、大船渡、陸前高田など各被災地に散ったグループが情報を持ち寄る状況報告会に出席させていただいた(県社協障がい協県知福合同役員会)。これは今後の対策会議でもあった。盛岡市で宿泊。
4月7日:盛岡より帰途、17時15分、トーコロ青葉ワークセンター着
まとめ
求める支援物資は変化する
時間の経過は早く、地震・津波からすでに1カ月以上が経った。我々が輸送に向かったのは震災発生から20日以上が経過していた。輸送した物資は食料、衣類、のほかタオル、マスク等であった。すでに幹線道路は復旧し必要最低限の水や食料は確保されるようになっており、その時点で欲しいものは調味料であったり副食品など、衣類も女性用Lサイズの下着というように被災者個別の必要品に変わってきていた。1週間先、1か月先の個別ニーズを把握し対応する支援が求められ対策会議においても検討されていた。個別対応として在宅障害者への支援も課題となっていた。しかし最も欲しいものは家と車が正直欲しいという訴えを聞いた。被災にめげず自ら生活を一日も早く立て直そうとする表われと思う。
被災者が必要とする物資をいかに早く効率よく届けるか、それには膨大な物資を素早く仕分けて必要とする施設に届くように手配することである。それを可能にするのはまず送る側が段ボールの中身を明確にすることから始まる。
現地拠点から施設への個別搬送は、岩手社協がコーディネーターとなり、地元の施設をハブ基地とし搬送には地元施設車があたり我々はそれに引率される形となった。我々は広汎に被災した地域に点在する障害者施設へ物資を届けるという運搬の役割だったが、単に物資を届けるというだけでなく県社協にとっては現地の状況把握も行う目的もあった。
施設職員の支援も急務
岩手県の場合、障害者施設・高齢者施設の多くは沿岸部より高台にあって多くは被災を免れ、避難場所となっている。被災者を加えた施設では、利用者・被災者を抱えた施設の厳しい状況も緊急対応が必要となっていた。住まいが津波にさらわれ跡形もなく被災者となりつつも職務に励む職員や職員減となってしまった施設で勤務する職員の過重な仕事に職員の疲弊は極限にいたっているという。
「末長い支援をよろしくお願いします」
大震災が発生してから40日、復興への道のりはまだまだ見通すことが出来ない。これまで暮らしてきた風景は瓦礫となってしまった。地域とともに営んできた授産施設では作業が無くなってきており、下請けの軽作業を頼みにしてきた施設は親会社の再興まで耐えられるか、これまで仕事を出してきてくれた会社からの受注が無くなるのではないかと不安を抱いている。
「末長い支援をよろしくお願いします。」これは現地のハブ基地を与かる大松学園の栃澤淳氏の別れの際の言葉である。この言葉に応える言葉はもっておらず、目礼しただけで車に乗り込んだ。同じ障害者施設に職する者として、東京コロニーの一員として、不安をとり払う言葉をもって改めて当地に行いきたいと思っている。